A life with Music

Introducing Special and Private music files

Maurizio Pollini in Cleveland

一昨日82歳でこの世を去ったMaurizio Pollini
時々Severance Hallを訪れていた。

ということで、Maurizio Polliniを偲びつつ、彼とCleveland Orchestraとのリンクを2週に分けて紹介していこう
週初の「Cleveland Orchestra」関連音源ということでもある。

だが、まず最初は、Clevelandではなく、Salzburg Festivalでの演奏。1981年8月20日、その直前に亡くなった、そして、彼が良く共演していたKarl Bohmを悼んで特別に演奏したMozartのAdagio
https://1drv.ms/u/s!Amwmi_J1lNSohrx-vrk9li6Zq1Zdnw?e=lnkk5N

Mozartの「葬送音楽」には、あまりHeroicなところや、BeethovenやBerlioz、Verdiのような劇的なジェスチャァはない。むしろそのキーワードは「緊迫感」と「寂寥感」だろう。若い頃のPolliniらしく、一音一音が非常に明瞭で、粒立ちが良く、非常に均一にコントロールされている。それが独特の緊張感を音楽に与えている。そして音が弱音になっても、決して「弱い」音ではない。ピアノやピアニッシモは音量が小さくても、音自体を「霞ませてはならない」というのがピアノ演奏者にとっての「イロハ」である。

"Im Gedenken für an den kürzlich verstorbenen Dirigenten Karl Böhm spielte Maurizio Pollini außer Programm das Agagio von Wolfgang Amadeus Mozart, Köchel 540......"= "In memory of the recently diseased conductor Karl Bohm, Maurizio Pollini played off the program Wolfgang Amadeus Mozart's Adagio, K.540" =急死した指揮者カール・ベームを偲んで、マウリツィオ・ポリーニが、プログラムには記載されていないヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトのアダージョ、K540を演奏しました」とORFのコメンテイターが演奏後に説明している。

続いてClevelandでの演奏、曲はBrahmsのPiano Concerto No. 1 
1978年3月9日、Maazel時代に、客演にきたWillam Steinbergとの共演である。奇しくも、この2か月後、Steinbergは世を去っている。Steinbergにとっても、生涯最後の演奏の一つだった。

Steinberg at Blossom-2
* BlossomでCleveland をリハーサルするWilliam Steinberg

Polliniは、この演奏と同時期、Karl Bohm指揮するWiener Philharmonikerとこの曲をDGに商業録音していた。Karl Bohmに比べてより「攻撃的」で「直線的」なSteinbergの指揮と、Orchestraの優れた性能が、Maurizio Polliniのピアニズムを良くサポートしている。

1楽章-https://1drv.ms/u/s!Amwmi_J1lNSohr0Bu9eRxjGEn43Lng?e=HZdYhH

Steinbergという指揮者、あまり取り上げる機会がないが、バックグラウンドや世代的に、独墺圏で、世紀の変わり目に生を受け、Jewishとしてのバックグラウンドを持ち、迫害を受けUSに渡って来た、Bruno Walter, Otto Klemperer, George Szellなどと同じグループに属するアーティストだ。その中でも、Steinbergは、最も「赤裸」で「構造面」から音楽を築き上げるスタイルをとるようだ。むしろSzellよりも、Structure>Poesyではないかと思う。この演奏会で、前半にBrahmsの3番を指揮しているが、これも、骨格の逞しい、時にもう少し「Romanticなすき間」を期待したくなるほど堅牢な演奏だ。

幸いこの1番の協奏曲は、独奏者に人を得れば、構造を前面に押し出しても、通用する音楽になっている。協奏曲というよりも、ピアノパート付き交響曲と称されるぐらいなのだから。

そして、1978年の時点でのPolliniのピアニズムは、一点の曇りもあいまいさもない。一音一音がこれ以上ないほど、明確に鳴らされている。まさに、Con fuoco=火を噴くように、情熱を迸らせながら演奏している。そのエネルギーの放散に「には圧倒される。1楽章には、ニュアンスに富んだ解釈を受け入れる箇所も少なくないのだろうが、PolliniとSteinbergとの演奏は、一気呵成に進む。Maazel時代のClevelandは、指揮者の嗜好で、音の潤いがやや足りず、それぞれのセクションの溶け合いよりも、Virtuosity=名技を追求するアンサンブルだった。この演奏でも、それぞれのセクションの自己主張が強く、弦はやや硬質の音を出して常に「何かを撥ね退ける」ような雰囲気を感じる。2楽章がどういう音楽になるのか気になる。

2楽章-https://1drv.ms/u/s!Amwmi_J1lNSohr0ApvB4Y2gTB2tdrw?e=zTcyw4

ややゆったり目のTempo設定で、一楽章とは違った音楽を構築しようとする、が、Polliniのソロには、逡巡や甘美な感情はあまり感じられない。前半部分、ややPolliniの打鍵は剛強すぎるようでもある。この部分は計算ミスかもしれない。幸い、曲の方が中間部から盛り上がって来て、その瑕瑾が、あまり気にならなくなる。そこでは、若い作曲家の匂い立つような香気、未知の未来への憧れの感情が、Tension=緊張感に裏打ちされて、作曲者の若さ故の熱い感情が織りなす物語が、圧倒的な迫力を持って迫ってくる。こういうBrahmsも悪くないと思う。

3楽章-https://1drv.ms/u/s!Amwmi_J1lNSohrx_EkqFD8tW8kv4xA?e=9Tj47x

この楽章、弾いてみると、とにかく指に対する負担が大きい。常に3本4本の指が跳躍した鍵盤を「掴む」必要があって、一音一音を明瞭に鳴らしながら素早く移動を続けさせられるから、Polliniのように崩れもなく均質な演奏はプロフェッショナルといえど、滅多にない。この当時の彼の卓越した「体力」は、やはり抜群のものがあった、20世紀後半を代表する最高のピアニストだったと思う。

PolliniとSteinbergによる3楽章は、「荒ぶるBrahms」を顕在化した演奏といえるだろう。Brahmsには、彼のピアノ曲ならRhapsodiesなどに見るように、屈折したパトスが、制御できなくなって猛然と流れ出てくる作品がいくつかある。それも彼の一面であって、こういう曲を「綺麗ごと」に纏めてしまわれると物足りない。この演奏は、存分にBrahmsの情熱を感じることができる。そして、手ざわりもごつごつとして骨太な音楽で、これはSteinburgという指揮者の個性と曲がマッチした結果だ。当時のClevelandの少し「ざらざら」とした音響すら、この演奏スタイルに貢献しているようだ。

この人の残した商業録音には、時々疑問を感じるものもある、例えば彼のDebussyのPreludes。私自身が、相当楽譜を丁寧に考察して演奏した過去があるため、どうしても彼の譜読みの恣意的なところ、徹底されていない所が気になってしまう。同じ曲集で、先輩のArturo Benedetti-Michelangeliが見せる一瞬の隙も無い、そしてどこを取っても「アイディア」と「誠心」に満ちた演奏に比べると軽い失望を禁じ得ない。

だが、ステイジで聞く彼は、圧倒的だった。Beethovenを弾こうが、Chopinでも、Ravelでも、そして20世紀音楽を積極的に演奏・紹介するその姿勢にも何度も感謝を感じたものだった。Boulezのソナタなど、彼以外に演奏してくれる人は殆どいなかった。録音と実演で姿勢の違いを見せるArtistは少なくない。時に「録音」は、Artistについて、不思議に「Deviated=偏向」した印象を与えてしまうこともある。

晩年になってから好んで演奏していたChopinは、若いころとは全く違った、作品に対する「深い愛着」を感じさせる音楽になっていた。MazurkaやNocturneのように、技巧を大して必要としない作品で聞かせてくれる「懐かしい歌」。

あれは素晴らしかった。

  1. 2024/03/24(日) 10:41:40|
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Mozart Concerto KV 595 - Garrick Ohlsson @ Cleveland(3楽章修復済み)

Garrick OhlssonがClevelandに来てMozart(KV595, B flat Major、通称27番)を演奏したことは2日前Brucknerを紹介した時触れた。

Franz Welser-Mostとの共演で、Bruckner4番に先立って、プログラム前半がこのMozart最後のピアノコンチェルトだった。

Ohlssonも、「ヨーロッパ指向」の日本ではあまり口端に上ることのない演奏家かもしれない。だが、この人は飛びっきりの技巧と、Eccentricity=奇矯な行動とは正反対の成熟し落ち着いた音楽を演奏するピアニストだ。

元来は、Igor Levitが演奏するはずだったのだが、直前にOhlssonが代役に指名された。このLevitも、面白いピアニストで、一度紹介をと思ってい未だ果たせていない。

ともあれ、Ohlssonを映像でみるという珍しいチャンスを前に一つ思ったことがある。このKV595という作品、どのような表情で演奏したらよいのだろう? 質問自体不思議かもしれない。音楽が流れてゆくに従って自然に「感情」が巻き起こり、それが表情を決めるのでは?そもそもなぜ音楽を演奏するという行為に「表情を作る」というもう一つの行動を合わせる必要があるのか?

日本人には、他文化と違った特性があるといわれる。音楽関連なら、虫の「音」をノイズではなく、鳥の「歌声」と同様に聴く能力などだ。逆に、日本人は音楽演奏の最中に「表情」を作るのが苦手である。プロフェッショナルの音楽家になると、例えばオーケストラの楽員やソロイストが、楽曲演奏中にMake Faces=表情豊かに振舞うが、それをみて居心地の悪さを感じる聴き手が多かったり、表情が作れない音楽家が多いのは、どうやら「日本文化」だと私は思っている。自分自身の体験でも、成長期、音楽を演奏する時表情を出すと「親」に窘められたり、なんともいえない抵抗感があった。

そうではない、音楽演奏には体のあらゆる機能を使ってよいのだ、例えば、あるフレイズを演奏する前に、管楽器でもない鍵盤楽器で、大きく息を吸い込んでみたり、フレイズの終焉=Cadenceと同期させてゆっくりと息を吐く、これで、Tempoの管理がどれだけ柔軟になるか。次に表れる曲想に応じて、例えば大きく目を見開いてみたり、目をそっと閉じてみたり、「先行動作」を敢えて作り出すことで、表現を「導く」ことが、演奏をどれだけ豊かにするか?それは、こちらに来てから学んだことだった。そういう音楽教育を日本で受けたことはなかった・・・・・・

さて、OhlssonとKV595に戻る。もし、Mozartの10番台後半の作品群(個人的に、KV466以降、番号20番台の協奏曲は、確かに傑作ぞろいだが、世評は、20番台に比べて15番以降の評価が低すぎるのではと思っている)なら、悦びを爆発させてみたり、デリケイトなパッセイジ、玄妙な和声を前にして目をみはったり、ふとしたモティーフに驚いて身を固まらせたりと、だいたい曲想を想起することで一連の流れがUnfold=ストーリィの方から自然に紐解かれ、その内なるイメイジが演奏を形作ってゆく。

だが、このKV595はどうもそうはいかない。少なくとも私にとっては。大げさな表情の変化を「拒む」何かを感じてしまうのだ。

なので、Garrick Ohlssonは、どのような表情で演奏しているのか大変興味があった。結論からいうと、彼は、常に憂いと時には涙を浮かべつつ、とても厳粛に、感受性を常に最大限に維持しながら演奏しているようだった。表情の動きは最小限だったが、時折見せる、遠くを見つめるような目がとても印象的だった。映像を提供(音源と同じく、私自身が編集した動画をShareするオプションを現在テストしている)ない以上、You need to take my words for it=言葉を信用してもらうしか他にない。

この姿勢、ヨーロッパ、US文化で育った音楽演奏家には珍しいと思う。あらゆるアクション=行動の端々にまで「理由」を規定しようとする、異文化から見れば「不安神経症」とも形容できる伝統に育った人として。ただ、Ohlossonは、6か国語を喋り、多くの文化に精通していると聞く。単一の文化・言語だけを奉じている多くのUS人とは少し違う文化背景を持つ人物でもある。


最初にお詫びがある。1楽章は「ハイブリッド」音源になっている。日曜日3時から始まる動画ストリームに帰宅が間に合わず、最初の10分程欠損してしまった。ちょうど、2013年にGarrick OhlssonがTanglewoodで演奏したKV595が「蔵」にあったので、それを聴いて見たら演奏の雰囲気は酷似していた(つまりOhlsson自身の演奏スタイルは、2013年の時点で本人が満足できるレヴェルで確立されていたということだろう)ので、欠損部分をそれで補ってあるEdo de Waart指揮、Boston Symphonyの演奏がバックになっている。接合させた部分の前後で、音響やオーケストラの演奏スタイルが若干違うから、面白ければ注意してどこで繋いでいるか想像していただきたい。

前半でのTanglewoodでの演奏、Ohlssonは、とにかく丁寧に、一音一音をはっきりと、発声している。よくこの曲を形容するような「幽玄」という雰囲気ではない。より肯定的である。この時、Ohlssonはどういう表情で演奏していたのだろうか? Adellaでの再放映に期待するしかない。

BostonからClevelandとの演奏に切り替わると、微妙だが音色が変わる。Tanglewoodでの「粒立ちが明瞭」な音が、少しくぐもった色調を帯びる。これが、Ohlssonの10年間の変化、この曲をどのように演奏すべきなのかという考えの変遷なのだろう。細かい起伏が、より大きな景色の中に滑らかに統合されていったと形容したくなる。その結果、演奏がもたらすものは、「平穏」のように感じられる。

2楽章 この音楽には、晩年のMozartの「解脱」という雰囲気を期待したい・・・が、思う事があって、日本文化が求める「解脱」に相当するものは、特に近代のヨーロッパや北米の文化にはないのではないか?日本文化の観点で演奏を求めても、あまり相当するものがないのでは?ということ。逆にいえば日本の文化でこの曲を解釈すれば、世界に通用する新しい視点を提供できるとも思う。ともあれ、OhlssonとClevelandの演奏は、彼らの持つ音色の特色を生かして、透明で雑味の無い味わいである。これを「解脱」とは呼べないが、しかし、それに最も近い一つであるようにも感じる。

そして、Ohlssonの愛するBoesendorferピアノの深めの音色も、表現を助けているようだ。

3楽章 かつてRudolf Serkinの映像を見たことがある。彼は、それまで抑えて来た「歓喜」を全身で爆発させ、飛び跳ねるように演奏していた。そのことを吉田秀和氏もどこかで記していたと思う。そして、子供のような「無邪気さ」が解釈の基本だった。さてOhlssonの演奏は?

Serkinのような「弾ける」6/8のリズムではなく、Ohlssonのそれは遥かに滑らかで、それぞれの音を心もちTenuto気味に保持している。1楽章から続く、「平穏」で、調和のとれた雰囲気で、曲を統一しているようだ。といって、Mozartもヨーロッパ人で、彼らにとって「放下」すなわち現世への執着を放棄することは、人生を放棄することであろうから、この楽章も、単に「平静」なだけで演奏することは賛成できない。Rudolf Serkinがこの楽章で「歓喜」を爆発させたのはそれも理由なのだと思う・・・だが、この放映で、Ohlssonが見せる、敢えて感情の波立ちを抑えて、Mist=霧のかかったような表情で、時折微かに笑みを浮かべて演奏する様をみていたら、納得させられてしまった。

(Cadenzaの部分、音跳びがあったところ、修復済み

ちょうど、家の界隈では桜が満開になっている。この桜、もとは日本から来たものだ。一本だけポツンと咲いているのは、ほんの少し寂し気でもあり、だが、落ち着いた華やぎもあり、なんとなく、この音楽と演奏を聴いていて、ぴったりではないかと感じてしまった。

してみると私の感性はまだ完全に日本を離脱していないらしい。


2024-03-22 Cherry Blossoms


  1. 2024/03/22(金) 05:37:52|
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Bruckner Sym 4_from Cleveland by Welser-Most

悪性疾患(詳細は発表されていない)で、昨年10月から1か月半ほど指揮を辞めて治療に専念していたWelser-Mostだが、その後の経過はとりあえず順調なようで、2024年が明けてから映像(Cleveland Orchestra自主製作のAdella)でも、元気な姿を見せている。

2002年9月にDohnanyiを引き継いでから、22年と、Mostは、Clevelandの歴代監督で最長のTenureを維持してきたが、ついに、今回(~2026)以降契約を更新しないと発表した。

これを受けて、Cleveland Orchestraは、次期監督の選定を始め、2024‐25,25‐26シーズンは客演指揮者を多数招くことも発表されている。

例えば2024-25シーズンの客演指揮者の顔ぶれは、

San Franciscoの運営と衝突し、突然辞任を発表したEsa-Pekka Salonen(公には、もう音楽監督業はしないと述懐しているが)、Daniel Harding, Klaus Mäkelä, David Robertson(この人は現在St. Louisの監督で、もう他の場所に移るには年長すぎるだろう), Pablo Heras-Casado, Stéphane Denève, Elim Chan, Fabio Luisi, Alan Gilbert and Bernard Labadie。新たにデビューするのが、 Thomas Guggeis and Kazuki Yamada. 

Salonenの辞任は、運営側が資金を大幅にカット(これもオーケストラを存続させるためには仕方のないことだが)したことへの抗議的意味合いとされる。楽員は、この寝耳に水の事件に困惑してSalonenの続投を希望している。

Yamada氏は、Birminghamの指揮者に就任(前々任は、Andris Neslsonsだった)した。Simon Rattle以来、このオーケストラの歴代指揮者はビッグポストにジャンプすることが多いから、すなわち有望株と見なされたことになる。

Salonenは年齢から長期政権は見込めないだろうが、最適者が見当たらない時の数年間の繋ぎ候補としては有力だろうし、最近各地で名前を聴くKlaus Makelaが、Yamadaと並んでダークホースといった印象。

New Yorkで良い仕事をしたのにカリスマ的な人気が無いという理由で弊履の如く扱われたAlan Gilbertは、指揮者としての実力は非常に高いものがあり、前からClevelandの立て直しのために打ってつけの人材だと思っていた。

とはいいつつ、Welser-Mostは、まだまだ「去り行く」指揮者とは到底言えない存在感を持っている。

最近のAdellaでの映像で久しぶりにこの人の指揮ぶりと音楽を聴いて、以前の個人的に「Unacceptable=受容し難い」「Negative」な印象もかなり薄れてきたと感じた。

放映された2024年3月16日のプログラムは、
Mozart Piano Concerto KV595 (B Flat Major)-Garrick Ohlsson
Bruckner Symphony No.4

Mozartも紹介したい演奏だが、まずBrucknerから。

Brucknerの場合、どの版を利用するかということが「指揮者の見識」を窺い知る第一歩だが、前回4番を取り上げた時(2012年)、Welser-Mostは、Benjamin Korstvedt版を使っていた。Korstvedtの1888年第3稿に基づいた、かなり挑発的な版である(Osmo VanskaがBISに録音している。3楽章など特にメロディラインがブツ切れになったり、3部形式が完全でなかったりと、それゆえに弟子Loweの改作とされていた、Korstevedt自身は、紛れもなくBrucknerその人が参加した改訂で、作曲者の最終案だと主張している)。だが今回は、同じKorstvedtが、2018年に”第二稿(所謂HaasやNowakが拠り所としている版)に基づき、Herbert Blomstedtに献呈した版を用いている。こちらは、よく聞かれる版に近い。

この版は、Novak(私称4.5番)とHaas(私称4.3番、前から、ブルックナーの数多い改訂を整理するために、整数に限らず小数点を導入してみてはどうか?と提唱している)を折衷したような、個人的には、4.6番とでも呼称したい版である。

1楽章-https://1drv.ms/u/s!Amwmi_J1lNSohrxOp1BqIiDFIt7OPQ?e=HoysfB
2楽章-https://1drv.ms/u/s!Amwmi_J1lNSohrxQKx711uds8IWhXg?e=3tDdkO
3楽章-https://1drv.ms/u/s!Amwmi_J1lNSohrxPuAzyldpMnDiHfA?e=63aOwv
4楽章-https://1drv.ms/u/s!Amwmi_J1lNSohrxROPSIZLULYe0f5g?e=zs2xbG

Welser-Mostのブルックナーは、良い意味でBruckner臭くないのが私には受け入れやすい。個人的にこの作曲家には余り思い入れがない。序に言うと、北米では、Brucknerは、あまり人気もない。US育ちで、Brucknerを取り上げない指揮者は、Leonard Bernstein(9番だけが例外だった)以来、Michael Tilson Thomas、Leonard Slatkinとかなり数が多い。Vladimir AshkenazyもCleveland時代日本のレコード芸術誌のインタヴューで、Brucknerについてかなり厳しい意見を開陳して(額づかず、もっと顔を上げて欲しいと、この点は強く同意する)、夫人から窘められていた。

私もこの人たちに近い「無関心より」な姿勢だが、演奏会で取り上げられていれば喜んで聞くし、かつて無性にこの作曲家の音楽が聴きたくなって、大学が終わった後電車に飛び乗って当日券目当てに大阪へ行き、Eugen JochumとBambergerで8番を聞いたこともある。

まず1楽章だが、この楽章では、まず特徴的なヘミオラ(3拍子と2拍子とを組み合わせる手法、多くの作曲家が愛好するが、特にBrahmsが有名)を3拍子に引き寄せて角ばって演奏するか、それとも2拍子に引き寄せてなだらかにするかが、指揮者のStrategyの分かれ目だろう。そして、中間部以降のクライマックスをどのように築くか。雄大なOrgeltoneで、伽藍のような構造を築いて見せるのか?細部に分断して、滑らかさよりも、骨太でごつごつした手触りを敢えて演出して見せるのか?

Welser-Mostの演奏は、全体を遠くから鳥瞰して、あまり細部のギザギザに拘らず、なだらかな、そう、富士山のようなKonideタイプの山を遠くから見たような印象を与える。私的にいえば、そこが若干物足りない。外観美を重要視しすぎているように感じるからだ。だが、それだけに演奏は洗練されているし、Welser-MostがこのOrchestraを導いてきた溶け合いの美しく、しなやかな音色が冴える。

現在Beethoven Marathonで通過中のOpus 68(通称Pastoral)もそうだが、Brucknerの曲には、「自然」を描写したような箇所も多い。これをどう演奏してくれるのかも、個人的に興味を感じるが、一つ私が拘りたいのは、「自然の描写」だからといって、風景写真のような演奏はあまり聞きたくないということ。人間の矮小な想像力で「自然」に枠をはめてほしくない。そこには抽象、我々の貧弱な体験からは想像できないような驚き、例えばHubbleやJames Webbが写す宇宙の風景のように、身近なObjectsからは絶対連想できないTransdendential=破格の何かを感じさせてほしいと思う。いつもではなく、ごく一瞬で良いから。

2楽章は、静かに息をひそめたように、そっとTiptoeでDelicateに始めて欲しい。もちろん、楽器がMute=弱音器をつけているから、「籠った」音になるのだが、それだけでなく「Intimate=密やかな」雰囲気で演奏して欲しい。この演奏は合格だ。Clevelandが、Welser-Most時代になって特化した性能や能力が、こうした曲目へのAdaptability=適応性を更に向上させたと思う。Welser-Mostの功績だ。ただ、一つ一つのメロディやモティーフを取り上げるとき、Welseer-Mostは、もう少し粘りが欲しいなと思うところでもすたすたと通り過ぎてしまう。特にそれを感じるのが、開始後12分40秒ほどを経た処、そこまで少しずつ音量を上げ、音楽が密度を増して、金管のコラールを過ぎて、少し静まった後、「痛切」なメロディが演奏される箇所だ。もう少し「深い奥行き」で「思いのたけを吐露・解放」してほしい。- これと似た印象を与える指揮者がもう一人浮かぶ。Kurt Masurだ。MasurとWelser-Mostは、4拍子のRhythmの採り方(後述)や、Melodyを歌う時の執着の薄さなど、共通項がいくつかあるように思っている。

3楽章-Korstvedtの以前の1888年第三稿準拠版で、ポピュラァな第二稿から最も大きな乖離を示す楽章だ。既に言及したように、トリオの後、もう一度主部が回帰する時、元の構造が保存されていない不完全な「3部形式」になっている。Korstvedtが擁護しても、この改変は、曲の論理構造が破壊されて(というが、Brucknerの作曲方法には結構破格なところも多いという印象がある)、第2稿前のアイディアが残された方が個人的に印象は良い。Clevelandの演奏は、やはり角が丸く、優美に滑らかなシルエットだが、Hornや、金管、打楽器のアクセントはもう少し強く「多少ごつごつした肌触り」になるように表現してもらいたいと思う。Trioの調和のとれた柔らかな手触りは、指揮者の目指すスタイルの実現という点で、なかなか高い水準を達成していると思う。「狩り」のホルンの付点リズムや、信号のような響き、3年前から首席に就任した若いNathaniel Silbershlagの演奏が光っている。この人は、Clevelandの至宝、新たに伝説を作る奏者だと思っている。

4楽章、何故か4番を聞いていて、このフィナーレが鳴り始める前、7番の4楽章を無意識に期待していて「あれっ」と肩透かしを食わされることがある。ここまで音楽が進んできて、私は「弾むような」音楽を聴く気分になっているようだ。その代わりに、次々と場面が交替する。Heroicに、E flatのコラールが華やかに盛り上げた後、10分25秒前後で、2楽章を思わせる「哀切」なメロディが流れる場面、同じようにMostは、ここを「Matter-of-factly」「ごく普通に、事務的に」演奏して、私はまた肩透かしを感じてしまう。ここはもう少しここぞという想い入れを聞かせてほしいな・・・弦セクションの音色は美しいが、もっと艶やかに演奏できるはずだ。15分前後からの2度目のコラール、金管のピッチの良さで、響きは非常に美しいのはこのオーケストラならでは。ここで、ダメ押しのように鳴らされるTimpani、 ここはもう少し「ずしん」と心火響く一打がほしい。

最後のクライマックスの場面、ここは、NowakとHaasの違いが現れる場面だが、Korstvedtは、Haasよりに、Hornに冒頭の主題をあからさまに演奏させずに、幾つかの楽器のハーモニーでテーマを表出する方策を採っている。だが、Hornが高らかにメロディを演奏するのも、「いよいよ長い旅路が終結」という感じで悪くないものだ。時にはそちらのヴァージョンでも聞きたいと思う。

かつて、Welser-MostがClevelandに客演に来るようになったころ(1999年前後)、どうしても感覚的に相いれなかったのが、彼のRhythmで、特に4拍子は、1,2,3,4,と均等ではなく、1,2,3,3.75ぐらいで、3拍子と4拍子の間が心持短く、寸詰まりな爬行(Kurt Masurにも同様の癖を感じる)だったこと、Rhythm以外にも、音楽が常に上滑りで何を演奏しても、「心から満足させてくれることが無い」という不満だった。そして、Orchestraのコントロールも、Christoph von Dohnanyiに比べると細部の詰めが甘く、折角Dohnanyiが再建したオーケストラを迷走させてしまったことも残念だった(今を持ってもDohnanyi時代の水準には達していない)。特に実演で聞くと、一曲に必ず一箇所以上、Ensembleの「杜撰」な箇所が目立ち、このオーケストラの昔を知る者としては、顔を顰めてしまうし、歯がゆい思いを禁じえない。下手をすると、このユニークな団体も、早晩、遂にOne of them = 「ごく普通のOrchestra」にまで落ちてしまうのでないかとの危惧をおさえられないでいる。

The Cleveland Orchestra Storyの著者Donald Rosenberg氏も、Dohnanyi時代と比較してWelser-Mostを厳しく批判し過ぎたため、Plain Dealerでの地位を失い、更にOrchestraと泥仕合を演じて訴訟にまで至ったが、Welser-Most時代が始まったときのRosenberg氏の深い失望の心境は理解できる。

だから次期監督にはGilbertのように、アンサンブルを底から構築できる指揮者に来て欲しいと思う。才能に溢れた楽員は揃っているのだから・・

  1. 2024/03/20(水) 07:53:39|
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Cleveland lost its concermaster

2018年に解雇された名コンサートマスターWilliam Preucilの後任はなかなか決まらなかった。2年前、Israel PhilharmonicのコンサートマスターからDavid Radzynskiが転任してきたが、先週退任した事が発表された。

当然詳細の事情は語られていないが、内部からの情報では、
1.これまで2年間は、「試用」期間だった。
2.だが、通例この後に「Tenure=終身職」に移行するところが、Musical Arts Associationは、Tenureを認可しなかった。

その結果、行先の無くなったRadzynski氏は、辞任した

ということらしい。
もっと穿った内部情報などもあるようだが、生臭い詮索はこれ以上避けよう。

Orchestraは、また新しいコンサートマスター探しを始めることになる。
Radzynski氏は、Clevelandに応募した時同時にBostonでも同色のオーディションを受け、Finalist=最終候補だったが、決定されなかった。現在、空席のBostonで「代理コンサートマスター」として演奏しているようである。 

Clevelandでのこの人の演奏は、何度か聞いたが、可もなく不可もなかったと私には聞こえた。前々任のMajeske氏(Szellの晩年に任命された)は、非常に穏健で頼りになりそうな柔和な表情、話し方で、しっかりとした職人肌で、水準の高い演奏をする人、前任William Preucilは、圧倒的な芸術性を誇る素晴らしいヴァイオリニストだった。比較すると存在感がやや薄かったのだが・・・Radzynski氏の今後に幸運を期待したいと思う・・・
2年間ご苦労様。

  1. 2024/03/13(水) 03:20:02|
  2. Cleveland Orchestraに所縁の音楽家
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Olivier Messian by Boulez and Cleveland

ClevelandのDohnanyi時代の「ナンバー2」指揮者は、80年代はVladimir Ashkenazyだった。だが、90年代になると別の指揮者に主導権が移る。それは、Pierre Boulezだ。

1990年WCLVの放送を聞いていて、「Boulezが復帰する(当時はインターネットなどなかったから、こういうニューズは放送なり新聞で読む以外入手できなかった)」とコンラッド氏が他のプログラムの余白に説明しているのを聞いて、驚いた。そして嬉しかった。

当時、パリで「作曲」に勤しむBoulezの指揮はもう聞けないのかと思っていた。更に、録音計画もあって、ストらヴィンスキやドビュッシーが録音される予定である(曲目までは説明はなかった)という嬉しい知らせもあった。

そして1991年、本当にBoulezが帰ってきた。ここから、BoulezとClevelandの関係が復活し、彼が死去する2010年代まで毎年コンスタントに客演に来ていた。

オーケストラにとって最も大事なイヴェントの一つであるカーネギーホールの公演がBoulezに任されたこともあった。Mahler, Ravel(様々な管弦楽曲もそうだが、滅多に演奏されないオペラ、L'enfant et les sortilèges=子供と魔法を聞けたのは、幸運だった), Debussy, Messiaen, Bartokなどの演奏は、未だに記憶に残っている。

BoulezのWCLV音源もいろいろ揃っている。多くはレコーディングと重なっているが、彼の最後の客演となった2010年のMessiaenを取り上げてみよう。

MessiaenとBoulezとの間には、多少Twist=齟齬もあった。新進作曲家としてBoulezの作品は、数学的・理論的で、メロディなど薬にしたくもない。頭をかき回されるような音楽だった。これに噛みついたのがMessiaenだった。Messiaenにとって「作曲家」Boulezの音楽は、全く評価し難いものだった。

しかし、「指揮者」Boulezは、Messiaenの作品をしばしば取り上げ、更に新作を委託もしている。

2010年2月6日の演奏会は、BoulezにとってClevelandへの最後の客演になった。演奏曲目は、

Ascensionはメシアンのごく初期の作品で、彼の原点と形容できるスタイルで作曲されている。その音響は、後年の物に比べると素朴で、一見19世紀的な音響から何も進歩していないのではないかとすら思わせるのだが、分析を見ると、彼が発明した技法(MLT modes of limited transposition=限られた移調(つまりはランダムではないということ)を用いた様式 ウィキペディアにも説明がある―https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A7%BB%E8%AA%BF%E3%81%AE%E9%99%90%E3%82%89%E3%82%8C%E3%81%9F%E6%97%8B%E6%B3%95)が駆使されている。

コラールであるが、一言で印象をいえば、音が「塊」となって、上下に移動している。そして、それは、20世紀音楽、Schoenbergの12音の「ブラウン運動的なランダム」さに比べてなだらかでゆっくりとしている。それは、Messiaenの音楽が常にオルガン的発想であることによるのかもしれない。グレゴリオ聖歌的な印象もあると思えば、確かにはっきりと2楽章のように引用されている部分もある。

タイトルは、

  1. Majesté du Christ demandant sa gloire à son Père ("The Majesty of Christ Demanding His Glory of the Father") =自分の栄光を神に求めるキリストの威容
  2. Alléluias sereins d’une âme qui désire le ciel ("Serene Alleluias of a Soul that Longs for the Heavens") =天国を求める魂の浄化されたハレルヤ
  3. Alléluia sur la trompette, alléluia sur la cymbale ("Alleluia on the Trumpet, Alleluia on the Cymbal")=トランペットのハレルヤ、シンバルのハレルヤ
  4. Prière du Christ montant vers son Père ("Prayer of Christ Ascending Towards His Father")=父なる神の下へ昇天するキリストの祈り

と、Messiaenらしく、キリスト教の教義に基づいたものであるが、無神論者の私にとっては、それらのタイトルに対する特別な思い入れなしに、「純音楽」として受容するほかはない。

だから、「透明な音響(そのために、クリーヴランドオーケストラという団体の特徴が最大限に生きている)」が、穏やかな調和を感じさせるということが、例えば第一楽章の印象になる。無神論者でも、例えば教会の内部に入れば、それが人類にとって共通の「平和」と「憩い」を求める場所であることは感知できる。信じる人たちがそこを「神の家」と呼ぶのは感覚的に納得できる。それと同様と言えばよいだろうか。

もう一つクリーヴランドオーケストラの傑出した能力が、ピッチの正確さである。古典的な3度、5度、オクターヴというのは物理的性状、つまりそれぞれが共鳴し合うという原理に基づいて構築されている。これがどういうことを意味するかというと、自分の出しているピッチ(特に弦楽器は、ピッチは奏者各個人が決めなければならない)がずれていた場合、耳を通して修正が可能ということだ。だが、Messiaenを初め20世紀音楽は、この共鳴に頼らない音響を構築していることが多い。こうなると、自分の耳だけが頼りになる。Arnold Schoenberg合唱団が、もっとも先鋭な無調歌曲ばかりを歌う音楽会を聴きに行ったことがあるが、コーラスのメンバーはみな小さな音叉を持ち、何度もそれをこめかみに宛てて自分のピッチを「修正」しながら歌っていた(これを見ると絶対音感というものが存在することと、音楽でそれを使うこととは全く違う問題だということが良く判る。プロフェッショナルな歌手といえど、音叉という物理的器械の助けが必要なのだから。私は絶対音感神話をそれ程信用していない・・・)オーケストラのメンバーは、もちろん音叉に頼らず、自分の感覚で音を出しているわけだが、無調作品になるとその能力の低い団体が発する音響は濁りが目立つようになる。クリーヴランドの凄いところは、20世紀のバリバリの無調音楽でも、響きの透明度が一切減退しないことだ。

2楽章も、音響や音楽的には1楽章の延長と思える。

そこで、聞いていて私がふと「驚いた」のが3楽章で、スケルツォ的な動きの大きい変拍子的なリズムといい、和声と音響といい、Bartok音楽と共通点を感じる。特に3楽章後半は、「The Miraculous Mandarin=神秘的な中国の役人」を思わせるのではないだろうか?Messiaenのメソドロジーは、Bartokの音響をも含めて理論化したのかもしれない。

4楽章は、再び1楽章や2楽章のムードに戻る。短いフレーズが上下に動きつつ、一端Cadence=終止を経て、次のフレーズに繋がって行く。相変わらず透明な音響で、動きはなだらかだ。Lutoslawskiをはじめとするポーランド20世紀音楽学派たちの音楽と共通性も感じる。彼らは確かにMessiaenと同時代を生きた作曲家だった。

この演奏会当時、Clevelandは、もうWelser-Mostの時代になって10年が経とうとしていた。完全にWelser-Mostのオーケストラになっていたわけだが、Boulezが指揮すると、1990年代から21世紀にかけてDohnanyiが築き上げた黄金時代の成果は失われていないことが感じられることが多かった。

最後に、1970年代のBoulezとこのオーケストラとの共演から。60年代のBoulezと、90年代復帰以降の彼は、演奏家として随分違う。若い頃は客気溢れる、挑発的な音楽家だった。復帰後は円満な紳士である。だが、若いBoulez暴れ馬の様な奔放さには何とも言えない魅力がある

1971年11月19日の演奏会から、Ravelの左手のためのコンチェルト。ソロはPhillippe Entremont=フィリップ・アントルモン・・・といえば、Columbia Recordsへの録音が思い浮かぶが、演奏会は、商業録音の前日のものだ。だから表情は酷似していて不思議はないのだが、19日の演奏は、20日の「端正」な録音に比べてより動きが大きく、ダイナミックなウネリが感じられて私は個人的にこちらの方を好んで聞く

https://1drv.ms/u/s!Amwmi_J1lNSohrNDbaogW0GE-ix3og?e=21wIir

極度の洗練を見せつつ、こんなに野趣あふれ土の香りのするRavel、滅多にない。


  1. 2024/02/04(日) 04:03:22|
  2. Cleveland Orchestraに所縁の音楽家
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Y-XYZ (in usa)

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