A life with Music

Introducing Special and Private music files

Leinsdorf's heritage- ラインスドルフの遺産

Erich Leinsdorfのクリーヴランド時代、そしてそれ以降の演奏についてもうすこし触れてみよう。

これまでに、1946年2月の、LeinsdorfとCleveland唯一の録音セッションからDvorak6番を紹介した。

The Cleveland Orchestra Storyの著者、Donald Rosenberg氏が推す、Rimsky-Korsakovの交響曲2番を聴いて見よう。
1946年2月22日の録音、Columbia Recordsから当初SPとして発売された。
1楽章ーhttps://1drv.ms/u/s!Amwmi_J1lNSog7pKHoEYOBRTcEcu3Q?e=6YyOeC
2楽章ーhttps://1drv.ms/u/s!Amwmi_J1lNSog7pIUSwnq5sS5Pn_Cw?e=IEjb2G
3楽章ーhttps://1drv.ms/u/s!Amwmi_J1lNSog7pJw10_qa2dN8XGhw?e=HGwLG1
4楽章-https://1drv.ms/u/s!Amwmi_J1lNSog7pL9GsWSVbDdd43eQ?e=FZEAnE

私が所有しているのは、ColumbiaがこれをLPとして発売した1949年のML2044

ML2044 Leinsdorf conducts Rimsky-Korsakov Antar 2

興味深いことにこのディスクは10インチ、収録時間が短いためか、小型サイズだ。まだ編集に取り掛かっていないので、盛大なヒス・クリック・ポップノイズが残っているが、音質としては一応聞ける。

この曲の成り立ちや、ストーリーは、インターネットの文献が豊富だから、余り触れず、同じ作曲家のScheherazadeなどと同じく、アラブの伝説、旋律を引用した、Exoticな作品で、BerliozのSymphonie-FantastiqueやHarold in Italyにも共通する要素のあることなど。音響的には、RavelのDaphnis et Chloeを思わせる(時代的にはこちらの方が先輩であるが)印象も受けた。一言でいえば、「音の絵巻物。
.主人公の詩人Antar=アンタールが、襲われている動物を助けたらそれが魔力を持つ女王であったというあたりは、火の鳥などとも共通する、中欧アジアの伝説のパターンだが、その礼に「3つの願い(何故3が神話伝説でマジックナンバーになるのか、面白いと思う)」を叶えてくれる内容が、「Retaliation=復讐、Power=権力、Love=愛」というのは、草食農耕民族にはなかなかできない発想だ・・・・・

華やかな管弦楽法を用いた作品で、外面的な効果を惜しまず、大胆に表出してもらいたいが、Leinsdorfは、その点全く不足を感じないし、Orchestraも色彩感豊かに反応している。とりわけ、最後の「愛」のエピソード、官能性豊かとまでは行かないが、表現力豊かで、面白い。この演奏、今回のために久しぶりに聞いたが、印象を新にした。Donald Rosenberg氏の言う通り、これは出色の演奏だ。

個人的にRodzinskiの最後期にあって、Leinsdorf時代に消えた特性が、弦、木管セクションの統一された求心で、セクション全体が一つの楽器のように演奏できるClevelandスタイルだと思う。

RodzinskiのMendelssohnのMisdummernight's Dreamの例えばScherzoを聴けば、何を言っているか理解してもらえると思う。https://1drv.ms/u/s!Amwmi_J1lNSog7sKVN3S6PeuuA7HDg?e=HabQBf

1940年のMendelssohnに比べると、1946年時点でのClevelandは、焦点が大まかで「ぼやけた」アンサンブルに聞こえる。Rimsky-Korsakovの作品では、このような演奏スタイルが出てこないから、余り欠点が目立たない。

少しオーディオ的な興味に話を逸らそう。

このディスクは、長らく再発されることはなかった。1978年に、Cleveland Orchestraの60周年を記念して、過去の録音をWCLVがマラソンディスク(過去の音楽監督たちの歴史的録音を組み合わせて紹介)として発売したとき、当時新興だった、Clevelandに居を置くTelarc社が技術援助をして、その中にRimsky Korsakovの3楽章がリマスターされて収録された。

CLO 60th year LP #2


それが、これである。
https://1drv.ms/u/s!Amwmi_J1lNSog7pMHJCR6NeSXzkFbg?e=VpqjxQ

ML2044と聞き比べると、過去30年のLP盤の材質やプレス技術の向上を反映して、格段にノイズは減っている。だが、もともとSP盤をどの段階のサブマスターから復刻したのかわからないが、音そのものの生々しさがやや後退しているように聞こえる。これは、LP時代によくあった「Remastering=リマスター」「Re-press=再プレス」でよく見られた現象ではないだろうか。Yositakaさんの言葉を借りれば、経年変化によるAging=エイジングなのかもしれない。出所の古いLPからDigital復刻していると、時に同様の印象を受けるものだ。

交響曲他の2作、Dvorak6番は、Rosenberg氏は「見るものが無い」と切り捨てているが、私はそうは思わない。Clevelandは、6番を後年DohnanyiとDeccaに録音し、最近でもWelser-Mostと演奏したものがStreamで放送されているが、以前紹介した1969年のIstvan Kerteszの演奏を除けば、このLeinsdorfの演奏は貴重な記録だし、演奏としても水準をはるかに上回るものだと思う。OrchestraもRodzinski時代の引き締まったサウンドではなく、アンサンブルの精度は後退していると思う。特に4楽章を聞けば、込み入った箇所が「ザワザワ」しているのが感知できるだろう。ただ、Rodzinski-Szell時代より豊潤で、例えばPhiladelphiaなどに近寄ったソノリティになっている。これが、Leinsdorfの個性、求めた音響かもしれない。
3楽章だけ、もう一度。ーhttps://1drv.ms/u/s!Amwmi_J1lNSog7pRyObboEuQybCZgw?e=UPDLcw
Dvorakらしい、弾けるようなエネルギー溢れる活気と、陽光降り注ぐ光景、聞く人を想わず微笑ませてしまう快活さがとても心地よい。

Schumann1番は、活気には溢れているが、あまりにも一本調子で、Schumannの内気で傷つきやすい心、逡巡が勢いに押し潰されていて、演奏として私が好ましいと思う方向とは違う。SchumannをMendelssohn的に解釈した演奏とでも形容すれば良いか?
1楽章ーhttps://1drv.ms/u/s!Amwmi_J1lNSog7o52eb5EszDe6ibDg?e=ZZ4HVW
2楽章ーhttps://1drv.ms/u/s!Amwmi_J1lNSog7o437htjqttM7t_Yg?e=v1Phw6
3楽章ーhttps://1drv.ms/u/s!Amwmi_J1lNSog7o3lq4RUZybZiPKig?e=77zxiO
4楽章ーhttps://1drv.ms/u/s!Amwmi_J1lNSog7o6IzedEj-2grd3vg?e=CW7N6T

この中で2楽章は、やや押しつけがましくべっとりとした部分もあるが、Lyrical=抒情的なメロディが出色だ。Rosenberg氏の点は辛いが、名演奏だと歓迎する人もかなりいると思う。私の趣味の方向とは違うが、Leinsdorfなりの論理の中で、完成度は高い演奏だ。

後の小品集で、BrahmsのChorale Prelude(Leinsdorf自身のOrchestra編曲)が2曲あるが、手元にない。SchubertのRosamundeの間奏曲も然り。

Mozartは、メヌエット(KV383f)。これは、George SzellのMozartを集めたオリジナルジャケットCDボックスにボーナスとして付与されていた。https://1drv.ms/u/s!Amwmi_J1lNSog7pNwjFFFWJANrmCcA?e=qLAS4d
私はSzellのX線写真のような解像度を誇るMozartが好きなので、こういう普通のMozartにはあまり惹かれない。だが、木管のチャーミングな演奏など、これもRosenberg氏が言うほど(同時代、後年の演奏と比肩できるものではない)という評価はやや辛口だと思う。

後年、MaazelとDohnanyiの間の常任不在時代、Leinsdorfは乞われて何度もClevelandに客演している。Rosenberg氏は、「実質常任指揮者として責務を果たしていた」と形容している。
この時期(1981年3月12日)のMozart演奏。マーチKV249
https://1drv.ms/u/s!Amwmi_J1lNSog7pnIrhDv2J28_W7OQ?e=pm9ms5

音色は、Maazel時代のClevelandで、Szell時代より弦も木管も平板で、Maazelが目指した「Spectacular=光彩陸離」とした音色は達成されておらず、オーケストラとしては「迷走」時代と形容したい。Leinsdorfの演奏は、1946年の頃と同じ要素が感じられる。

同種のMozartのマーチをSzellの1967年の演奏と比べてみると、この2人のOrchestra管理能力の違い、目指すソノリティーの違い、解釈の大胆さなどが浮き彫りになる。
https://1drv.ms/u/s!Amwmi_J1lNSog7pqTTaYvVQYM4rJFg?e=g1pv5J

おそらく大方の人は、むしろSzellのMozartを奇矯と思うかもしれない。私は、Mozartを「優美」に「円やかに」演奏するというフィロソフィーが20世紀前半の残渣だと思っている。このSzellの演奏のように、はち切れんばかりの活力と、ほんの少しのIndecency=卑俗さ(といって、Mozartは、その気になれば神のような音楽が書けた)を大胆に表出したほうが、Mozartの本質に近いと思える。Leinsdorfの行き方は、比較すれば「穏当」で「常識・潮流に合わせた」中庸にしか聞こえない。

続いては、Straussファミリーの作品。LeinsdorfもSzellもWienで音楽教育を受けた。音楽的にはヴィ―ンっ子と言って良い。彼らにとってStraussのポルカやワルツは、「故郷の調べ」であろう。SzellもClevelandといくつかシュトラウス一家のワルツやポルカを録音していて、例えばPizzicato Polkaでは、「パラノイア」的にPizzicatoを揃えていて(特に意図したのではなく、当時のClevelandにとって朝飯前であっただけのことだろうが)Perpetuum Mobileでは、「And so on=繰り返しが続く」と掛け声をかけて演奏を終わらせるなど、結構楽しんでいるような様子が伺えた。

Leinsdorfも、Donner und Blitz=雷鳴と電光などでは勇壮に(欲を言えば、オーケストラのリズムが少し重い、もう少し瀟洒に演奏してもらいたいところ、Carlos Kleiberが日本に来た時のMunchenとのアンコールをつい思い出してしまう)、Perpetuum Mobile=無窮動の才気煥発な風情など、故郷の音楽を楽しんでいるようだ。
Eduard Strauss ーRace Track Polka https://1drv.ms/u/s!Amwmi_J1lNSog7pwSigaiFkvD7Y1zA?e=lu2cIF
Johann Strauss Senior - Radetzky March https://1drv.ms/u/s!Amwmi_J1lNSog7pymxQb9UVXtaUwMA?e=Xhc06C
Johann Strauss Junior - Perpetuum Mobile https://1drv.ms/u/s!Amwmi_J1lNSog7pxtFdkXGD46_7dnQ?e=xqJU5j
Johann Strauss Junior Donner und Blitz Polka https://1drv.ms/u/s!Amwmi_J1lNSog7pz0r90TtuJOibQzw?e=IEFGEL
Josef Strauss Music of the Spheres Waltz https://1drv.ms/u/s!Amwmi_J1lNSog7p0Kj5EAC8cIosXVg?e=pCV1HP

Rosenberg氏の「玉石混交」とは、このほかのSchubert, Brahms、Mozart(上述のマーチ)を合わせての評で、SchubertとBrahmsの2曲は聞いていないから何とも言えないが、このStrauss一家の作品は、楽しめる出来になっていると思う。


余談になるが、SzellにとってLeinsdorfは、同郷の、人種的にもユダヤ系であり、ToscaniniのProtege=寵児、Metropolitan Operaを若くして牛耳っていた(LeinsdorfがClevelandに転出して、初めてドイツレパトワーがSzellに回ってきた経緯は、The Cleveland Orchestra StoryやA life of Musicですでに紹介した)ということで、かなり意識せざるを得ない存在だっただろう。そして、Clevelandで完膚なきまでにLeinsdorfを叩きのめして、その後は「優越感」を持っていたことが、Tales from the Locker Roomのエピソードからうかがえる。

この著作のProtagonist=狂言回し的な役割を果たす、元コントラバス首席 Lawrence Angell=ローレンス・エンジェル自身のエピソード(42頁)を引用してみよう。

”Mr. Angell, just how many aw-chestras are there in Rawchester?" As I began a seemingly endless litany of the many student and professional orchestras in that musical city, it occurred to me that he knew exactly the answer to his question. Suddenly, interrupting, my interrogator said: " Oh, I see., Mr. Angell- so Mr. L-e-i-n-s-d-o-r-f conducts the 'shtudent' orchestra - Isn't that right?" 

「ところでエンジェル君、ローチェスター(セルの発音をそのまま記載している、ロチェスターではなく、ドイツ風の口蓋音でRを発音したのだろう)には、どれだけの数のオーヘストラ(ドイツ語のオーヒェスターに近いセルの発音をもじっている)があるんだね?」私(エンジェル)は、ロチェスターという音楽都市には幾多の学生オーケストラやプロフェッショナル団体があることを長々と説明しようとして突如気づいた。セルは答えを知っていて、ワザと問いかけたのだと。私を突然遮ると、「尋問官」はこう言った
「ああそうか、エンジェル君。そこで、ラーイーンースードールーフ君が、シュトゥ―デント(=学生、再びドイツ風の発音)オーケストラを指揮しているんだね、そうじゃないかい?」
  1. 2023/09/23(土) 04:56:17|
  2. Cleveland Orchestraに所縁の音楽家
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Boulez and Cleveland play Mahler 5th

先日のSzell追悼で紹介した、Rosenberg氏の大作、The Cleveland Orchestra Storyで、1970年3月のBarenboimとのエピソードが紹介されていた

Barenboimの自叙伝にも同じエピソードがあったので、そこがソースかもしれない。
ともあれこの日、前半BoulezとBartoのPiano Concerto1番を演奏した後、Szellに招待されて、Severance Hallのボックス席で彼らが聞いたBoulezのMahlerの5番

これを紹介しよう。

一時期、Cleveland時代のBoulezの演奏会音源を集中して紹介していたことがあった
それは、商業録音だけを聴いていたのでは分からないBoulezの別の顔が見えるからだ。

1991年の久しぶりに録音に復帰してから、Boulezは、後半なレパトワー、多くは再録音になるが、での解釈を聴かせた。それは、円満で、ヨーロッパの文化の真髄・結晶ともいうべき調和と叡智に満ちていた。

だが、若い頃のBoulezは、より「挑戦的」「挑発的」な音楽を創っていた。ダルムシュタットの現代音楽祭で、当時の新進の作曲家たちの中でも、最も先鋭な意見を爆弾のように投下し、既存の音楽を時には激しく攻撃していた

それは、演奏にも表れている。
Cleveland時代、1967年から71年のColumbiaへの録音は、今でも評価が高い。
だが、これらの録音の殆どには、Clevelandの演奏会のWCLV録音が存在する。StravinskyのLe sacreもDebussyやRavelも。それらは、演奏会の週末に録音セッションが設けられるケイスが多いが、聞き比べてみると違いが存在する

長年聞いてきた私の結論は、「当時のBoulezは、演奏会と録音とを別ものと定義していた」というもの。例えば、このBlogでは、George Szellの多くの演奏会音源を紹介しているが、Szellにも演奏会の週末にColumbiaやEMIに残された商業録音が存在するが、Szellの態度は、「観客が入っていたら演奏会」「マイクが並んでいたら録音セッション」ということで、演奏姿勢に違いはない。

だが、Boulezは、商業録音では、作品と一定の距離を置き、客観的に、そして、より演奏の外見を整える方針を貫いているように私には見える。「ディスクの商品価値」にも重きを置いているという事だろう。

結果、彼の商業録音は、非常に彫琢されたものだが、音楽の勢いや生命力の噴出という点では、実演に比べて一歩後退したものになる傾向がある。逆に、演奏会では、当時、あらゆる既存権威にたてつく問題児だったBoulezの激しい自己主張がより感じ取れる

今日のMahler5番は、この時期、Clevelandとの録音がない。
そして、後年のBoulez、あるいは70年代の商業録音から想像できる演奏とは一味違う大変興味深い記録だ

Mahlerの音楽、とりわけ、5~7番という純管弦楽の中期作は、共通して、非常に強い推進力に貫かれている。対位法が駆使された多声の音楽では、ほぼChaotic=カオス的な様相で、各楽器が自己主張している。綺麗に歌う一本のメロディーラインというロマン派の音楽よりは、各声部が独立して並立進行するバローク、古典派の音楽に近く(意外かもしれないが、作曲技法的には、必ずしも19世紀が18世紀より複雑とはいえない)、しかも、18世紀までの音楽の整然とした進行とは全く違った、「雑然と進行する音楽」である。そこを交通整理するのが指揮者の手腕なのだが、多くの指揮者は、この「雑然としたChaos」を恐れて、適当に綺麗ごとにまとめてしまう

1970年3月5日のBoulezの演奏には、表面だけの艶出しが全く施されていない
表面の手触りは、Coarse=粗く、ごつごつしている。Mahlerが隠し味的に随所に伏せている「からくり」が、すべて目に見える形で再現されている。時には相反する数々の要素を、それぞれを力一杯走らせ、Orchestraの非凡なアンサンブル能力を駆使して力でねじ伏せている。それは、特に複雑にフーガや対位法が絡み合ったフィナーレを聴けば一層良く解る

Boulezが表現する5番は、「荒ぶる神」だ。注釈をしておくと「神」という表現には何の他意もない。人間を超えた存在として絶大な力をふるうという意味だけで、「荒ぶるモンスター」であってもよかった。

まず1楽章‐https://1drv.ms/u/s!Amwmi_J1lNSog7EPqQeAzEA_Qp8v5w?e=RG26JB
一楽章は、実に整然と始まる。Trumpetのソロからは、1960年以来Clevelandのトップを務めるBernard Adelstein。彼は、Minneapolis Symphonyから来た。そして、Minneapolisでは、15歳のころから神童として活躍していた。Adelsteinのソロは、低域から高域に至るまで幅広く安定していて、やや音量が暴力的になることはあっても、非常に優れた奏者だった。だだ、彼は1987年、引退直前にDohnanyiとMahler5番をDeccaに録音しているのだが、其処では残念な衰えを見せ、かなり不安定な演奏で、録音を台無しにしてしまった。Dohnanyiには、1988年、次の首席Michael Sachs(現在も首席を続けている)が加入した後で、ヨーロッパ楽旅に際してWienとLondonで演奏したライヴの5番があるが、そこでは、新しい首席Sachsを得て、再編成された金管セクションが、満足のゆく演奏を聞かせている。Dohnanyiの商業録音に失望した聞き手は、このライヴでの演奏を聞けば、彼のMahler5番再評価につながるはずだ。

この楽章は葬送行進曲である。だが、Boulezの演奏には小気味よいほど「感傷」がない。途中から音楽が奔流のように流れる箇所も、Tempoを抑えめに、Mahlerの管弦楽法のディーテイルに拘り、幾つもの声部が、同等の存在感をもって自己主張する。そして、とてつもないエネルギーを持ったクライマックスに達するが、響きは相変わらず透明だ。表面の手触りが、磨かれず、ざらざらした質感を伝えるのが、Boulezの個性だろう。その後は、TrumpetやClarinetを始めとする木管が「モノローグ」の呟きを見せ、次第に嗚咽にいたるが、やはりBoulezは、その感情の深さを描くものの、愁嘆場をみせようとはしない。日本の能では、最小限の動きで、最大の感情の動きを表して見せる「逆説」が特徴的だが、この場面でのBoulezの「強いコントロール」にはそれとつながるものを感じる。この演奏を通して、Tromboneが、Szellの時には絶対見せない開き直った存在感を見せつけるのも、興味深いと思う。

2楽章-https://1drv.ms/u/s!Amwmi_J1lNSog7FdrP5NF5Q4HQUTDA?e=sKCCVX
この楽章は、1楽章にもまして、「荒ぶる」様子が明瞭だ。といっても、演奏技術の拙さ故の「粗さ」ではなく、すべての音があるべき場所で、くっきり明確に演奏されつつ、しかし、滑らかなフィニッシュが意図的に拒否されているのだ。中間部に向けて、少しずつ終楽章の「歓喜の主題」が姿を現す場面、Boulezは、後年の彼ではみられなくなったラプソディックな姿勢で、Tempoを自在に動かして見せるが、Orchestraは、指揮者の手(Boulezは、指揮棒を持たない)にピタリと食いついて全く破綻を見せない。また、この楽章では重要な役割を果たすコントラバスの、一糸乱れぬ強靭な細かい音型の処理も、見事としかいいようがない。Clevelandの黄金時代の記録だろう。

3楽章-https://1drv.ms/u/s!Amwmi_J1lNSog7FeHc_cpHXWzDnfEg?e=xyCaua
この楽章は、もうHorn首席、Myron Bloomのためにあるようなものだ。それほど彼の演奏は、抜きんでて光っている。だが、Bloomは、単なるVirtuosoではない。おそらく音の滑らかさでいえば、現在首席Nathaniel Silverschlagは、Clevelandで歴代最高の名手だろう。だが、Nathanielは、「万遍ない名手」である。それに対して、Bloomは、時には敢えて危険区域まで攻める個性の強い奏者だ。時には大失敗に終わることもあるが、彼の演奏が、この5番のようにはまったときには、独演会となる。その上で、他のセクションも競うように存在を声高に叫ぶ。この音楽は、Polyphonyの「饗宴」なのだ。そして、この頃のBoulezは、込み入った譜面を振らせたら右に出るもののない、分析眼を持った指揮者なのだ。この頃彼がどういうリハーサルをしていたのか、非常に興味深い。Szellの様な無慈悲な反復練習ではなく、Scoreの難所をことごとく事前に把握し、効率よく、しかも、ツボを外さぬリハーサルをしていたのではないか?それほど、この楽章で、「演奏があぶなっかしくなりそうな」Pitfall=陥穽が、ことごとく防がれている。この指揮手腕には、流石のSzellも舌を巻いていたに違いない。

4楽章-https://1drv.ms/u/s!Amwmi_J1lNSog7FcCGGv40anhuO0og?e=tCYMoe
この楽章では、Mahlerの「毒」と「耽美」を求めるのが一般だが、BoulezやSzellの場合それは全くありえない。彼らが求めるものが違うとかいいようがない。だから、普通の演奏とは違った美点を見、違った音楽と理解するしかない。これを好悪の問題で片付けたくはない。そして、そのような美点は、無数にある。OrchestraのPitchの揃った透明な響き。硬質で孤高ではあるが、これほどの「美」は、滅多に体験できるものではない。そして、弦の響きは、魂が震えるような情感に満ちている。Mahlerがこの楽章に託した「官能」とは違った、しかし曲想に即したユニークな解決法だと思う。
5楽章-https://1drv.ms/u/s!Amwmi_J1lNSog7FfIGbWd6rWrnZBJA?e=aOcwBH
いよいよ、フィナーレだが、この楽章は、Mahlerの音楽の中でも、複雑でしかも、対位法の粋を尽くして書かれているということで、一二を争うものだと思う。それだけに、この楽章は構築も困難だし、しかも、押しては返す波のように、何度もクライマックスが押し寄せる。未熟に全開に達してしまえば、音楽が飽和して、その後尻すぼみ、目も当てられぬことになってしまう。Boulezは、適格にそれぞれのピークを計量し、本当に段階的にクライマックスを構築してゆく。そして、Orchestraも、無限の体力を情熱をもってこの音楽を奏でてている。5番の録音や演奏記録は多しといえど、これほど密度と完成度の高い演奏は、あまり聞いたことが無い。コーダの、歓喜の迸りも、本当のカタルシスを感じさせてくれる。終わってしまうと、体から何かが抜けてしまうような脱力感に襲われる演奏だ。

ふと思うことなのだが、このフィナーレのように、フーガや対位法の粋を尽くして、幾つものヴォイス=声部が同時進行する音楽では、こちらも相当「耳を引き締めて」かかる必要があるのではないだろうかということ。主メロディーラインだけを浮きだたせて聞きやすく演奏するのは、子供だましではないか? こういう音楽は一瞬で理解はできない。だが、何度も聞き直しているうちに、複雑に絡み合った糸がほどけてくる、そういう体験をさせてくれるのが、例えばSzellであり、Boulezの音楽作りだと思う。Leon Fleisherが常に言っていたことだが、「楽譜に書かれたすべての音符は聞かれるためにある。だが、ただ鳴らすだけではだめだ、その音のコンテクストをも聞かせねばならない」と。

この演奏では、Boulezは、おそらく、Szell以上にCleveland Orchestraの本当の底力を発揮させたと思う。ボックスで聞いていたSzellも、音楽作品そのものへはあちこちで批判的な目を向けていただろうが、Boulezにリードされて圧倒的な演奏をくりひろげる「我が子」を見て、感無量であっただろう。

後年、1990年に録音に復帰してからのBoulezは、もはやこのようなAvant-gardな、野生児の魂を見せることはなくなった。その代わりに、ヨーロッパ文化の頂点を極めた洗練と上品さが音楽に加わったが、私はこの時代のBoulezを忘れることが出来ない。
そして、特に彼がClevelandと残した様々な演奏、商業録音に残されなかったBartokや、同時期の商業録音をはるかに上回る、「生命の炎」が燃え盛る実演の記録を本当に貴重なものだと思う。
  1. 2023/08/02(水) 07:37:35|
  2. Cleveland Orchestraに所縁の音楽家
  3. | Comments:2

Kurt Sanderling - Debut in Cleveland

Beethoven マラソンで、Symphony2番・作品36を紹介した時、手持ちの注目すべき「演奏会」音源から、Kurt Sanderlingのロッテルダムでの2番を挙げた

人気の高い指揮者ではなかったが、根強いファンを持ち、東独時代は、ドレスデンや東ベルリンで堅実で、尊敬に値する業績を上げていた。

今でも、東ベルリンの交響楽団とエテルナ・ドイツシャルプラッテンレーベルに残したSibelius, ShostakovichなどのLPを懐かしく思う。これらのほとんどは、LPで所有していたために、日本を離れるとき置いてきて、震災で瓦礫になってしまった。

さて、そのSanderlingと、Cleveland Orchestraとが、たった一度だけ軌跡を交えたことがあった
1991年3月14日。この日Kurt Sandelingは、79歳で、Clevelandデビューを果たした。生涯唯一のCleveland客演となった

演目は、
Haydn Symphony 82番
Shostakovich Symphony 15番
という興味深いもの。
Shostakovichは、Cleveland初演だった。

更に、この15番を録音するために、これまたClevelandに初登場となるERATO社がやって来た。

偶然だが、2週間前、Pierre Boulezが18年ぶりにCleveland Orchestraに復帰し、StravinskyやDebussyを演奏したが、これを録音するためにDGがほぼ初めてClevelandに登場(1974年のRafael KubelikのBeethoven全集の一環で、Clevelandとの8番がDGによって録音されたのがそれまで唯一)したこともあって、Clevelandを録音する録音会社は、従来のDecca, Telarc, Teldecに比べて5社になり、一躍Clevelandは、「北米で最も録音されているオーケストラ」のタイトルを獲得した。

Shostakovichには、ERATOとの録音と、この日の演奏会のWCLVによる音源とがあるが、Haydnは、商業録音がないため(後記、いつも愛読してくださるYoshitaka・猫パパさんから、ご指摘を頂いた。東独時代、Berlin交響楽団とエテルナ・ドイツシャルプラッテンにパリ交響曲6曲を録音していると、ご指摘に感謝いたします。序にLPを注文してみました)、WCLV音源が唯一である。

Kurt Sanderlingの演奏歴を追跡するという意味でも珍しい音源だが、ClevelandにとってもHaydn82番は、Robert Shaw以来演奏されたことがなかった

加えて、最近Beethoven マラソンで、Opus 20以降になって、3楽章にScherzoを採用するBeethovenの新機軸を複数の作品で聞いているが、ここで、Haydnの1786年(Beethovenの例えば2番とは、20年も隔たっていない)の作品である82番の3楽章を聞くと、比較的短い期間に、Beethovenという作曲家がトレンドをがらりと変えた、革命を成し遂げたことも実感できて面白い。逆に聴衆は、「何故Beethovenという人は、これほど常識を守れないのか?何がしたいのか?」と訝しかったことだろう。

なので、Sanderling/ClevelandによるHaydn 82番を聞いてみよう。

1楽章-https://1drv.ms/u/s!Amwmi_J1lNSog6EVm8q77PriVgZBPw?e=XGlXhC
この作品は、周知のようにHaydnのParis=バリ交響曲集に属する。1785‐86年に作曲された6曲、番号は、82~87が振られている。当作82番は、番号は最も若いが、作曲は6曲の中でもほぼ最後であるとする文献もある。Haydnの晩年の成熟を象徴する交響曲群と評価されている。個人的には、確かに技法、音楽内容的に、バロックを完全に脱し、Haydnとしても、ファイナルステイジに近いが、しかし、90番台の作品群、特に92番以降の充実と突出性(同時代音楽に対しての)には、やや及ばないとも思う。予定調和的で、やや冗漫なところも感じる。もちろん、これを「焦らず長閑な描写」と好む人もいるだろう。
Sanderlingは、先日のBeethovenの2番ような、強力な集中力・制御は見せず、Orchestraにリラックスさせつつ演奏させているように聞こえる。Clevelandの響きが、かつてのDresdenや、東ベルリンのBerliner Symphonieorchesterのように弦主導、透明で化粧気の薄い素肌の音色で鳴っているのが、指揮者の個性を感じさせる。George SzellのHaydnは、この人の作品を演奏するに最適の個性と感じさせたものだったが、SzellのようなAgility=敏捷さ、研ぎ澄まされた反射神経の良さ、ややぶっきらぼうなユーモアではなく、SanderlingのHaydnは、穏やかで、調和がとれていて、バランスが良く、すこぶる上品だ。最高の緑茶と和菓子の組み合わせと形容したくなる。

2楽章-https://1drv.ms/u/s!Amwmi_J1lNSog6EU9QX32VO2-D5qbg?e=6eE6Ry
この音楽を聴いて、後年の94番、いわゆる「サプライズ」交響曲の2楽章を思うのは私だけだろうか?もちろん、あの楽章にある、「Pauken=打楽器の強打」はここにはないから、「94番マイナスびっくりの要素」ということになる。だが注意して聞くと、主題が変奏的に変わってゆく中で、Subito forte=突然のフォルテが存在して、これを「打楽器」で予告なしにやれば、94番になる、つまりあの作品の構想の種がここにあるのかもしれない。この楽章でも、Orchestraの音は、透明(だが、同時期のBoulezのような分析的透明さではなく、素顔だ)で、あくまで弦主導の、懐かしいとすら思えるスタイルで、優美に音楽が進む。

3楽章-https://1drv.ms/u/s!Amwmi_J1lNSog6ET0yftUfS-vxnWPw?e=iYFzVH
この作品を取り上げようと思った理由の一つが、Beethovenの諸作品のScherzoとは対照的な、メヌエットの基本ともいえるこの楽章だった。BeethovenのScherzoは、まさにCon fuoco=火を吹くようなという形容が当てはまる。1780年代に当たり前だったメヌエットが、なんともおっとりと、長閑に響く。それからわずか15年で、Beethovenは音楽を全く変えてしまった。いや、正確には、彼は時代に突出しすぎていて、ロマン派の作曲家でも、多くはBeethovenの精神を継承できなかったともいえる。唯一無二の存在だったという他ないだろう。

4楽章-https://1drv.ms/u/s!Amwmi_J1lNSog6EWrilNnjxLNRAJ1A?e=snJhtG
冒頭の低弦の反復される音型が、バグパイプを模倣していて、それが、当時の大道芸であった、「クマのショウ」を連想させるということから、「熊」というニックネイムが、後年付けられる(1829年のこの曲の演奏会が嚆矢のようだ)理由になっている。3楽章のメヌエットを受けて、この楽章も、長閑で、温和に進む。Tempoを駆り立てて、疾風怒濤の音楽として表現することも可能だろうが、Sanderlingのハイドン像はそうではない。

Sanderlingは、最近の考証運動には殆ど関心がないようだ。Beethovenでもそうであったが、20世紀中期のスタイルを貫いている。そのスタイルの中で、最も良心的で、最上の一つだろう。個人的にノスタルジーを感じるし、音楽の趣味は、振り子のように(個人的には、単に2次元を往復する振り子よりも、3次元的に前進を続ける、Spiral=螺旋という形容を好むのだが)揺れ動くから、近い将来、この方向へまた回帰してゆくこともありえるかもしれない。
We shall see=それを見届けてみようではないか?

追記:忘れていたが、この日のShostakovich15番も面白い演奏だった。ERATOのCDも最近は廃盤になっているようで、ますますこの日のWCLV音源の価値が上昇したかもしれない。紹介したいと思う音源だ。

Sanderlingのかつての商業録音、東ドイツ時代のSibeliusやShostakovichは、MP3で購入できるようだし、PhilharmoniaとのBeethoven全集は注文していたLPが来たので、暫く楽しめそうだ。
  1. 2023/05/30(火) 04:31:13|
  2. Cleveland Orchestraに所縁の音楽家
  3. | Comments:9

New Concertmaster of the Cleveland Orchestra

Cleveland Orchestraが、先代の名コンサートマスターWilliam Preucilを失ってから、5年がたった。

これは、あの当時音楽会を震撼させた、Me too運動(勇気ある告発者が引き金となって、隠されていたスキャンダルが続々と現れた現象)の一例だった。

かねてから、音楽教育における、「醜聞」はうわさされていた。ティーンエイジャーの女性生徒が、男性教師から、「強要」されること、これはQuid pro Quoと呼ばれるHarassmentだ(USでも、法律家はラテン語を使いたがるため、法律条項が一般に流布する。Quid pro Quo=This for That=私は君にこれを保証するから、君は私にこれで奉仕せよ)。

そうして、1995年に三顧の礼で迎えられたPreucilは、Clevelandを去った。いや、公的な地位をすべて失った。Preucilの功績は巨大だった。彼ほどのVirtuosoは、稀であり、しかもリーダーとして、適格なGestureでViolinセクション全体にCueキューを与え、体を動かしながらリードする様子は、どのコンサートに行ってもひときわ目立つものだった。

その後任がようやく、やってきた。この動画にあるDavid Radzynski。名前はポーランド系ユダヤ人(かつてのクリーヴランドの監督、ロジンスキ=Rodzinskiと似ている)。といって、生粋のUSの人間だが、Clevelandに来る前は、Israel Philharmonicのコンサートマスターだった。US出身の音楽家が、広くヨーロッパなどで活躍するようになったのが、この数年の傾向で、逆に、USのオーケストラも、EUや、アジア出身の音楽家により広く門戸を開くようにもなった。

Cleveland Orchestraの公式Videoで、Radzynski氏が、生い立ち、特に、コロンバス市(オハイオ州都、クリーヴランドから車で2時間ほど、シンシナティの近く)で育ったことや、イェール大学時代、師、新しいボス=ウェルザー・メストについても語っている。





  1. 2023/05/25(木) 20:47:33|
  2. Cleveland Orchestraに所縁の音楽家
  3. | Comments:0

Mozart Requiem from Cleveland

最近あまり、というか昨年のBlog開設以来、声楽曲をあまり取り上げてこなかった。

特に理由はない。

さて、今日はMozartのRequiemを取り上げる。

今週のWCLV(クリーヴランドの放送局)のCleveland Orchestra on the Radio(このタイトルで過去50年以上、Cleveland Orchestraの演奏会を毎週放送してきている)というOn Demandプログラムに、Franz Welser-MostとこのオーケストラのMozartのRequiemが現在アップロードされている。
https://www.ideastream.org/wclv/cleveland-orchestra-on-the-radio/2

MozartのRequiemは、「未完の作品をどう聞くべきか」という問いを投げかける。私の良く聞く曲でも、例えばBartokのPiano Concerto 3番やViola Concertoは、作曲者はスケッチを残しているものの未完で、それを弟子がOrchestrationしたものが演奏されている。個人的に、Piano Concertoの3番、終楽章のオーケストラの響きは薄く、Bartokらしい「閃き」がやや後退している印象だ。Mahlerの10番は、一応完成されているAdagioだけとっても「他人」の手に入ったものだし、まして5楽章編成版になると、どこまでをMahlerの音楽ととるべきなのか(そもそもAdagioとPurgatorioを除く3つの楽章は、Mahlerの音楽なのだろうか?)、判断は相当困難になる。

純粋に、「作曲者以外の要素を聞かない」というPuristの姿勢なら、このRequiemは、音楽として成立しない。
そして、この問題についての明解な答えは、私自身まだ得られていない。

Requiemについては、Sussmayrの貢献分も一応含めて聞いているが、SequentiaとOffertoriumとの間の「落差」は、何度聞いてもほとんどショッキングなほどだ。続けて聞いていても、同じ集中力は持続しない。

ともあれ今日紹介する演奏は、今年3月9日のCleveland Orchestraの演奏会、Franz Welser-Mostの指揮で、ソロイストは、Siobhan Stagg, soprano, Avery Amereau, alto, Ben Bliss, tenor, Anthony Schneider, bass。バスのシュナイダーを除いて、3人はこれがClevelandでのデビューと新しい歌手を起用している。ここに、Cleveland Orchestra Chorusが加わる。

この演奏会を取り上げたのは、先日Severance Music Centerで聞いたDvorak9番が、息せき切ってひたすら焦燥にとりつかれたかのように疾走する演奏だったのに、このRequiemは、ふうわりとした、Tempoも極めて常識的な演奏だったことが、意外と言えば意外だった。

早速、第一曲Introitus -https://1drv.ms/u/s!Amwmi_J1lNSog5xZxl40blESUhwcFw
この音楽は、とてつもない「闇」を感じさせる演奏も可能だと思うが、Mostの演奏は角が取れた、滑らかなもので、音響的にも平和な安らぎがDominate=支配している。Cleveland Orchestra Chorusは、その創立に際してRobert Shawを招いて、傑出したChorusを建設して以来、その水準を落とさず保っている。ここでも、Chorusのピッチの揃った透明な音色は、伝統を辱めない水準だ。Orchestraも、弦の音が艶やか。音響的には、これは高水準の演奏だ。

Kyriehttps://1drv.ms/u/s!Amwmi_J1lNSog5xXX8AsA71ToB-h2w?e=RcC88b
このフーガ音楽の風格のある佇まいは、Mozartにとっても以前の作品とは違ったSomethingを感じさせる。Mostの演奏は、私自身がこの音楽に求めるスタイルとは少し違うが、Orchestra, Chorusの音響は、非常にバランスが良く、心地よい。それだけでもこの演奏には、独特の「価値」がある。Orchestrationは、Sussmayrによるとされるが、Mozart自身の様々な指示が残っていたのだろう、あまり「他人の介在」を感じることはない。

Sequentia
Dies Irae =怒りの日 -https://1drv.ms/u/s!Amwmi_J1lNSog5xYFG9H1kk9SzxYMw?e=6wz8RK
本人が完成していないとはいえ、これはまごうことなきMozartの音楽だし、しかも、以前の作品で感じられない新しい「実験」のように聞こえる。Mostの演奏は、再び私には少し温和すぎる。もう少しここでは、Conflictsや内心の揺らぎ、不安・不穏の要素を感じさせてほしいと思うが、それは、Mostとは違う演奏家に期待すべきことだろう。

Tuba mirum-https://1drv.ms/u/s!Amwmi_J1lNSog5xbv5QVu3Sl-mU7xw?e=NUFd8M
一時の「平和と調和」。声楽Quartetの能力が問われるナンバーで、今回のメンバーは、最上とはいえないが、水準以上の歌唱を聞かせる。

Rex tremendae ーhttps://1drv.ms/u/s!Amwmi_J1lNSog5xa6EXu-N5Ds6u6ng?e=94GRKA
音楽は、再びTragedy=悲劇に戻る。

Recordare - https://1drv.ms/u/s!Amwmi_J1lNSog5xdk8kRSW3YXfsOSg?e=yepN4j
緊張感は再びRelaxする。すでに見えてきたことだが、緊張感ではない、平和・調和のナンバーのほうが、Mostの解釈は相性が良いようだ。

Confutis-https://1drv.ms/u/s!Amwmi_J1lNSog5xcCtuMnS2CYMQ_9g?e=tgFLNr
Requiem前半の、いや全体のクライマックスといってよいナンバーかもしれない。再び私はこの楽章には、より緊張感をはらんだ危ない雰囲気が欲しいが、MostとClevelandの演奏は、「素晴らしい音」で鳴っている。正直、Mandel Hall / Severance Music Centerのホール内で聞く音はこれほど「豊潤な残響」があるわけではないが、こうして聞くと、コンサートホールよりも、「教会」で聞いているかのように響く。

少し横道に逸れるが、私の印象では最近WCLVはかなり積極的に「音」を加工しているように思う(加えて機材にかなり投資して、録音の質は向上した)。そして、それは2018年頃にそれまでWCLV放送のエンジニアだったBruce Gigax=ブルース・ギィガックスが引退し、Gintas Norvila=ギンタス・ノヴィーラが責任者となり、Cleveland OrchestraのHPがWCLV由来の音源を正式にArchival Recordingsとしてリンクし(TCO Classicsと銘打たれた)、動画プログラムAdellaが始まったころと同期している。興味深いのはその頃Welser-Mostが「これまでのCLOの放送には満足していなかった。音質が、このオーケストラの「柔らかい」音を捉えていなかったからだ」と暗にBruce Gigaxの録音を批判するような発言をしていたことだ。明らかにはされていないが、WCLV-CLOとの間で、従来の関係を見直し、大幅な方針変換が行われたと私には思える。

では閑話休題。
Lacrimosaーhttps://1drv.ms/u/s!Amwmi_J1lNSog5xeI7V6YqgBCC8Lrw?e=LMJIoI
流石にこの曲ともなれば、Mostの音楽作りもより「陰影」の深い方向を目指すようだ。痛切さや哀切はないが、大変美しい演奏だ。

Mozart Requiem Lachrymosa
*Mozartが残したスケッチブック、Lacrimosaの最後の部分、コーラスの旋律だけが残され、Orchestrationは、まったく手付かず。

Offertorium
Domine Jesu -https://1drv.ms/u/s!Amwmi_J1lNSog5xg34utu7TG72-H6A?e=kdhsiO
Hostias-https://1drv.ms/u/s!Amwmi_J1lNSog5xh8_i8OQt0OJfyyg?e=mpmICZ

Offertoriumは、Mozart自身が書き残した材料が未だそろっているとMusicologicalには言われている。Mozartが草稿の形で何も残さなかったのは次のSanctusからといわれるが、既にこの部分で、前半の音楽の密度、気迫は失われているように私には思える。

フーガの扱いも、Kyrieに比べて、平板ではないだろうか?

Sanctus -https://1drv.ms/u/s!Amwmi_J1lNSog5xfz_ftsLIz_nZaQQ?e=XvXFve
Benedictus -https://1drv.ms/u/s!Amwmi_J1lNSog5xjib6OVamUHGG0yQ?e=TMkcl0
Agnus Dei - https://1drv.ms/u/s!Amwmi_J1lNSog5xiRyAIuEfZLH3aHg?e=6Ih0Rh

この部分は、音楽としては、随分物足りない。それでも、Most-Clevelandの演奏は、充実した響きで演奏されていて、聞きたいという意欲をそそってくれる。

Communio - https://1drv.ms/u/s!Amwmi_J1lNSog5xkefNOnYz_djha3w?e=FqRpFo
漸くMozartが戻ってきた。ただ、Mozartが、このRequiemをどのような形で終わらせたかったのか?単に導入部をリピートするだけでなく、何か彼ならではの天才を見せてくれていたのか?それこそ、Unanswered Question =答えのない質問であろう。

この音楽で、Mozartは、LifeとDeath、どちらをPortrait=描いているのだろうか?これも、古された質問の一つだろうが、この曲前半は、劇的なテンションが貫いているとはいえ、それは死ではなく、生であるように感じる。「感じる」と書いたのは、理屈ではなく、感性としてそう思うからだ。

Welser-Mostという人は、良く言えば、レパトワーに応じて演奏スタイルを変える柔軟性に富んでいるといえるが、歴代の過去の監督、Szell,・Maazel・Dohnanyiが、どの作品を演奏させても「指揮者の明白な個性」を感じさせたことと違い、この人の「刻印」と呼べる独特のスタイルがないようにも聞こえる。

このオーケストラの過去のマスターたち、George Szell, Lorin Maazel, Christoph von Dohnanyiの撮りためた音源は、この先も紹介して行きたいし、何より私自身が折に触れて聞きたいと思う演奏が揃っている。比較すると、Welser-Mostについては、もう一つ「熱意」と「没頭」が湧いてこない。最近のこの人の演奏は以前に比べて私にはとっつきやすくなった。Rhythmが以前のように尻切れトンボでなくなったことが、その理由の一つだ。



  1. 2023/05/10(水) 11:04:22|
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紹介している音源のほとんどは、個人所有のもので、Postした日から20日間だけリンクは有効です。

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